小樽湾を見下ろす住吉町の高台に、静かに佇む一棟の建物がある。
旧カトリック小樽教会住ノ江聖堂──もとはひとつの邸宅だったこの建物は、時代の流れと人々の祈りを受けながら、その姿を少しずつ変えてきた。カトリック小樽教会としての役割を終えた今、2025年からは新たな想いを受け継ぎ、ふたたび人が集い、営みが重なる「居場所」として静かに息を吹き返そうとしている。
明治15年ごろから始まった小樽でのカトリック布教は、長らく富岡聖堂がその拠点となっていた。
戦後、信者の増加とともにその役割は手狭になり、新たな教会建設が必要とされた。選ばれたのは、小樽港を見下ろす住吉町の一画。
もともとは共成株式会社4代目社長・佐々木静二氏の邸宅であり、そのルーツをたどれば初代社長・沼田喜三郎という、地域に大きな足跡を残した実業家の存在に行き着く。

富山県から単身で北海道へ渡った沼田喜三郎は、本州から移入される米の多くが小樽の港に着くことに着目。
妙見川の上流に建てた水車を活用した精米業で成功を収めた。
明治24年に共成株式会社を創業、10年後には東北地方以北で最大の精米会社へと成長した。
現在の「小樽オルゴール堂」は、その本社社屋である。

佐々木静二氏が社長を退いた翌年に完成した。
旧共成株式会社(市指定歴史的建造物第17号)は、
北海道の『心臓』と呼ばれたまち・小樽の構成文化財です。
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その後、北空知の未開地に目を向け、約1000万坪を開拓する「開墾委託株式会社」を設立。
この地に鉄道が敷かれる際には、広大な土地を無償提供して誘致を支援し、沼田駅と命名される。
神社、寺院、学校用地などの整備にも力を尽くし、やがて町自体が「沼田町」と名付けられた。
92歳でその生涯を閉じた彼の名は、今も町とともに語り継がれている。
話を佐々木静二氏に戻そう。
沼田氏が初代社長を務めた共成株式会社の4代目社長を担ったのが佐々木氏である。
創業時から本店の支配人を務め、明治35年から約9年間社長を務めた。これは昭和中期までに9名の歴代社長がいたなかで、寿原英太郎氏に続いて2番目に長い任期となる。

昭和24年、佐々木氏の邸宅だった土地と建物は教会用地として譲渡された。信者たちに委ねられた建物はブロックづくりや、司祭館、聖堂の拡張増築、土蔵の上には鐘楼と十字架が据えられた。
もとは住宅だった建物が、祈りの心と共に「教会らしい姿」へと生まれ変わっていく。

現在:ウスキ呉服店
増築を終え、昭和27年11月に献堂式が行われた。そんな背景から建物が改良されたため、明治後期に建てられた豪邸の名残と昭和レトロな雰囲気が一つの建物内に同居している。
だが、少子高齢化とともに信者数は減少し、令和6年に教会としての役目を静かに終えた。
しかし、そこで物語は終わらなかった。
2024年4月の北海道新聞の記事で、NPO法人小樽民家再生プロジェクトがこの歴史ある建物のバトンを受け取ったことが報じられた。
旧寿原邸などの再生実績を持つこの団体は、旧カトリック小樽教会住ノ江聖堂を「人が集まり、語らい、想いをつなぐ場所」として再生しようとしている。
所有者は不動産として手放すのではなく、未来へ繋ぐ選択をしたのだろう。
その想いや歴史を継承する事象として、屋根の十字架など、教会であったことを示す遺されたものはそのままに、旧カトリック小樽教会という肩書も使い続けている。

旧カトリック小樽教会の空間は、「住む」「祈る」「集う」といった営みを包み込んできた。
今後は「まちと関わる」「想いを受け継ぐ」場所として、小樽の人や外から来た人の感性と、地域の記憶が交差する場になるだろう。宗教という枠を越えて、誰かの心に寄り添う「居場所」として、新たな歩みが始まった。

現在:住架
何を残し、何を手放し、何を受け継ぐのか。
住吉の高台にあるこの場所では、過去と未来が静かに交差しながら、積み重ねられた想いが新たな交流を生んでいる。その面白さに共鳴した人々の手で、またひとつ、あたらしい物語が始まった。
■参考文献
・沼田町百年史(1995)沼田町役場
・共成製薬50年のあゆみ(2006)共成製薬
(本社社屋建設年はこちらの書籍を引用しています)

郷土史研究ライター
盛 合 将 矢
もりあいまさや
小樽案内人検定所持|北海道新聞折込フリーペーパーKazeru『歴史巡るおたる』や、小樽観光協会ホームページのコラムなどを担当|NPO法人小樽民家再生プロジェクト会員